城、神社、仏閣などの歴史的建造物や伝統工芸、祭礼行事。
それぞれの地域で育まれ、受け継がれてきた文化財が、わが国では固有の「まち」を形成している。こうした歴史的・文化的価値が高い「まち」を後世に継承しようと歴史まちづくり法に基づき、国土交通省・農林水産省・文部科学省が認定するのが歴史都市である。
認定された歴史都市には文化財およびその周辺の環境を維持・向上させるため国が支援を行う。平成23年6月現在、高岡市を含む全国26都市が歴史都市に認定されている。

高岡市は富山県の北西部に位置し、県庁所在地の富山市に次ぐ県下第二の都市。
加賀前田家二代の前田利長が慶長14年(1609年)に高岡城と城下町を築いたのがその始まり。高岡城は築城後わずか6年のうちに一国一城令によって廃城となったが、三代利常によって商工業都市として発展を遂げた。この時代に生み出された金工、漆工などの伝統産業は現在も脈々と受け継がれている。

前田利長の父・利家が豊臣秀吉から拝領した鳳輦(ほうれん)の車を利長が城下の町民に与えたことから高岡御車山祭が始まったとされている。以来 400年にわたって町民らによってその伝統が守り継がれてきた。高岡御車山祭は国の重要有形・無形民俗文化財の指定を受けている。
御車山の山車は金工、漆工など高岡が誇る伝統技術の粋を集めたもので、絢爛豪華に彩られている。御車山は裃と一文字傘で正装した役員が先頭を歩き、半纏姿の曳き手によって所定のルートを巡行する。巡行路は400年ほとんど変更がない。
御車山の巡行が最も映えるのは土蔵造民家が建ち並ぶ山町筋。商工業で栄えた商人の街では建物に幕を張り、提灯を吊るして山車の巡行を迎える。

商工業の町として発展した高岡で旧北陸道が通る山町筋には商家の土蔵造民家が建ち並び、明治以降になると銀行が次々と建てられた。

北前船による交易や金融、紡績などで財を成した菅野家や大正時代に建てられた赤レンガ造で二階窓のステンドグラスが映える富山銀行本店などは山町筋の繁栄をうかがわせる建築物である。

花笠で飾られた山車が日没後、提灯山車に組み替えられる。
提灯によって勇ましく飾られた山車は曳き手の「イヤサー、イヤサー」の掛け声とともに巡行し、打ち鳴らされる拍子木にあわせて激しくぶつかりあう。山車同士がぶつかりあう「かっちゃ」が伏木曳山祭のクライマックス。
港町特有の荒々しさが興奮を呼ぶ勇壮な喧嘩祭りである。

高岡鋳物は前田利長が産業の発展を目的に7人の鋳物師を招いたことが始めとされ、彼らが吹場を与えられ住み着いたのが現在の金屋町である。
金屋町は鋳物の町として栄え、その技術は後に銅器やアルミなど高岡を代表する産業の礎となった。
現在も千本格子と呼ばれるさまのこ(狭間虫篭)が特徴的な町家がよく残り、歴史的な景観を形成している。間口が狭く、奥に細長く伸びる各町家の内部は、 母屋・中庭・土蔵・作業場の順に配され、火災の可能性の高い作業場を一番奥に置くことで母屋への延焼を防ぐよう工夫されている。

前田利長の命日にあたる6月20日には高岡銅器発祥の地である金屋町で御印祭が行われる。御印祭は高岡銅器の隆盛を利長に報告し、感謝の意を表すもので紺の法被姿の男衆行列が竹の棒を片手に町内を練り歩く。練り歩きの際に歌われるのが弥栄節(やがえふ)。弥栄節は鋳造作業の際に、溶鉱炉にたたら板を踏んで風を送る作業の辛さを紛らわせるために歌われた作業歌。
♪エンヤシャ ヤッシャイ 河内丹南 鋳物の起こり ヤガエフ
今じゃ高岡 金屋町 エー ヤガエフ エンヤシャ ヤッシャイ
今じゃ高岡金屋町 エー エンヤシャ ヤッシャイ
たたらを踏む際の掛け声が韻よく刻まれる中に、金屋町の鋳物の起源や、重労働の中でも自分たちの行う作業に誇りを持つ心が感じられる。

高岡鋳物の製作過程は製図、型作り、鋳造、仕上げ、着色に分類できる。
製図は墨と筆で描く詳細なデザイン画のこと。デザインが決まると型作り。木や鉄で原型を作り、原型を土や砂に埋め込んで鋳型を作る。鋳型に溶かした金属を流し込むのが鋳造。仕上げは鋳造された鋳物生地を削ったり叩いたりして模様を作り出し、表面を磨き上げる作業。最後の工程は錆を防ぎ、作品を美しくみせるための着色。こうした作業工程は専門の工房でそれぞれ行われ、現在に受け継がれている。
高岡鋳物の多くは銅鋳物で梵鐘や燈籠のような大型のものから火鉢や燭台などの日用品、かんざしや煙管などの装飾品など幅広く作られ、こうした製品を売り歩く高岡商人の活躍もあって高岡は銅器の一大産地として大きく発展した。

高岡漆器も高岡開町と同時に始まったとされている。
代表的な塗りの技法は彫刻塗、勇助塗、青貝塗の3種類。彫刻塗は、木彫堆朱、堆黒などによる雷紋や亀甲の地紋の上に草花鳥獣、青海波、牡丹、孔雀などを彫りだしたものが多く、立体感と独特な艶が表現できるのが特徴。その代表的なものは高岡御車山に見ることができる。
勇助塗は中国、明時代の漆器の研究を重ねて生みだした技法。唐風の雰囲気をもつ意匠に花鳥・山水・人物などの錆絵や箔絵を描き、要所に青貝、玉石などを施すなどの総合技法によってつくりだされる。繊細で雅趣に富んだ作風が特徴。
青貝塗は鮑などの貝を削って三角形や菱形の細片をつくり、これを組合わせて山水・花鳥を表現する技法。使用する貝は飽貝のほか夜光貝、蝶貝、孔雀貝などの種類がある。いずれも貝特有の真珠色が漆の色艶とよく調和し、独特な昧わいを醸しだしている。

瑞龍寺は利長の弟である利常が兄の遺徳を偲び、菩提寺として建立した曹洞宗の寺院。
雄大な山門から一直線上に仏殿と法堂が並ぶ均整のとれた伽藍配置は極めて完成度が高く、富山県唯一の国宝に指定されている。
伽藍の中で最も見栄えがする仏殿は屋根が鉛瓦で葺かれている。鉛瓦葺きの建物は重要文化財では他に金沢城石川門しかなく非常に稀有である。
瑞龍寺の参道・八丁道を進むと前田利長墓所にたどり着く。利長公の墓所は大名個人墓としては全国最大級の規模とされている。

勝興寺は浄土真宗本願寺派で蓮如上人縁の古刹。天正12年(1584年)に現在の場所に移り、戦国期には越中における一向一揆の拠点寺となった。
伽藍は本堂や唐門、大広間および式台など12棟の建造物で構成され、その全てが国の重要文化財に指定されている。
勝興寺の門前には子院や役寺などの寺院がおかれ寺内町を形成している。寺内町にある寺院はそれぞれ伝統的な様式を持つ建物で、勝興寺との密接な関係を持っている。

勝興寺が位置する伏木は、古代には越中の国府がおかれるなど古くから越中の政治・経済の中心として栄えた地であり、日本海に面した港町、交易の拠点としても発展してきた。
近世には北前船で財をなした廻船問屋が多く現れ、いまも、当時の街の繁栄ぶりをしのばせる町屋や国の登録有形文化財に指定されている高岡商工会議所伏木支所などの洋風建築が多く残っている。
廻船問屋は明治期以降の近代化にも大きく貢献し、伏木燈明台や伏木測候所(現在の高岡市伏木気象資料館)も私財をもとに建設された。
現代にあっても伏木港は環日本海交易の拠点として大きなにぎわいを見せ、富山港、富山新港とあわせた「伏木富山港」として日本海側拠点港に指定されている。

慶長14年(1609年)、前田利長は「関野」と呼ばれた地に高岡城と城下町を築いた。これが現在の高岡中心部のルーツである。
高岡城は廃城後も高岡町奉行所の管理下におかれ、加賀藩の米蔵、火薬蔵、番所を残すなど軍事拠点および町の核としての機能は維持されていた。明治に入ると高岡城跡公園指定運動が起こり、高岡城跡は公園に指定された。

高岡城の建造物は全く残されていないが、キリシタン大名の高山右近が設計したといわれる。縄張りや曲輪、堀は当時とほとんど変わっていない。高岡古城公園の桜並木は見事で市民憩いの場として春には賑わいをみせる。
今年(平成23年)になって高岡城の遺構が初めて発見されるなど高岡の歴史に新たな1ページが加わる可能性があると期待されている。

奈良時代、伏木の地には越中の国府がおかれた。天平18年(746年)には万葉の歌人として知られる大伴家持が国守として赴任している。
29歳で赴任した家持は、越中で暮らした5年間に多くの歌を詠んでいる。万葉集4516首のうち、家持作と分かっているものは473首、そのうち223首が越中の地で詠まれている。
歌には二上山や射水川(現在の小矢部川)など四季折々の越中の風物・自然がいきいきと詠みこまれ、高岡市内各地には多くの万葉歌碑がある。
馬並(な)めて いざうち行かな
渋谿(しぶたに)の
清き磯廻(いそま)に寄する波見に (巻17−3954・大伴家持)
馬を並べてさあ出かけようじゃないか。
渋谿(現在の雨晴海岸)の清らかな磯に打ち寄せているその波を見るために。
玉くしげ
二上山に 鳴く鳥の
声の恋しき 時は来にけり (巻17−3987・大伴家持)
二上山に鳴くホトトギスの、声の恋しい季節がやってきた。

また、高岡古城公園では毎年秋、2000人余りの参加者が3昼夜をかけて万葉集4516首をリレー方式で歌い上げる「万葉集全20巻朗唱の会」が開かれ、万葉の面影をいまに伝える。
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